バズっていた話題の関連記事♪

【天気の子】映画のレビュー・新海誠監督が伝えたかったことは?【ネタバレ有り】

君の名は。から3年、新海誠待望の最新映画「天気の子」が2019年7月19日にとうとう公開しました!

衝撃的な大ヒットを生み出した後の作品とのことで、監督・キャスト、そしてRADWIMPSにとっては相当なプレッシャーがかかったはずです。

そして何より映画を観る私達自身も、

新海監督、本当に大丈夫なのか?」「こけるんじゃないか?」「RADWIMPSはいい楽曲を作れるのか?

といった期待と不安が混じり合った状態で映画公開を待っていたと思います。

youtubeの予告動画には、日本人はもちろん海外の方々のコメントも非常に多く、

もはや全世界中が注目している「天気の子」

 

その大注目作品を「実際に映画館で観てきた!」という方はすでに沢山いらっしゃるんじゃないでしょうか。

私もその一人です。

 

皆さんにとって「天気の子」はいかがだったでしょうか?

「面白かった!!」

「予想以上に良かった」

「思ったより泣けなかった」

「何が言いたかったの?」

きっと十人十色の受け取り方があると思います。

 

それもそのはず。

新海誠監督が本作品について雑誌インタビューでこのように述べています。

たぶん見た人の意見が分かれる物語かなというふうには思っています。

お客さんに対して「あなたはどうするんですか?」って投げかける部分がすくあるんです。

引用:キネマ旬報(抜粋)

つまり今回の作品は、「見た人で意見が分かれる」「見ている人に問いかける」作品であり、

映画の各シーン、そして映画全体のストーリーで新海誠監督が伝えたい・届けたい「何か」が随所に存在しいると言っても過言ではないということです。

そんな本作品だからこそ、私自身が「映画を見て感じた感想」そして「新海誠が伝えたかったこと」を独自に考察してみたいと思います。

※あくまで一人の鑑賞者としての意見・考えで、映画の内容やテーマを断定するものではありません。

※ネタバレもありますのでご注意ください。

【天気の子】映画の感想

この投稿をInstagramで見る

新海誠(Makoto Shinkai)さん(@makoto.shinkai)がシェアした投稿

普通に面白かったし分かりやすかった

見終わった率直な感想。

普通に面白かった

そして分かりやすかった

ありきたりな感想で申し訳ありません笑

前作の「君の名は。」では、タキと三葉が入れ替わる時系列だったり、

口神酒の存在意義であったり、色々と推測して考えて観る必要がありましたが、

その点、今回の映画の設定は割りとシンプルだったんじゃないかと思います。

・陽菜が代々木の廃ビルの上で天気の巫女のなり、世界の構造を変え得る存在となってしまった

・天気の巫女は「人柱」として自分を犠牲にすることで、狂ってしまった世界を元に戻せる

・陽菜は自分が犠牲となり世界を戻す選択を下が、帆高はその運命に必死に抗った

・結果的に帆高と陽菜は自らの意思で世界の構造を変えた

上記の流れが、綺麗な一本筋のようにストーリー展開されていったので、きっと同じように「分かりやすかった」と感じる方は多いんじゃないでしょうか?

そして何より感じるのが、起承転結のバランスが良かったこと。

映画ってどうしても物語を面白くするために、伏線を張り巡らせれ最後の最後まで引っ張り…

尺がきたから一気に回収!!!

ってパターンがよくありますが、天気の子では伏線の回収も割と早い段階でしてくれて、ストレスなく映画を見ることができました!

 

見終わった後の晴れやかな気持ちが半端ない

新海誠監督の作品って結構、見終わった後に「この後どうなるの?」「これで終わり?」「話が一気に終わったな」

といった感想を持つことが多かったのですが、

今回の天気の子は、見終わった後、どことなく晴れやかな気持ちで終われました。

見終わって「スッキリ!」って感じですね笑

 

理由はおそらく、「映画の終わり方」にあるんじゃないかと思います。

 

今回の映画、終わり方はハッピーエンドに感じますが、実はハッピーエンドなのは帆高と陽菜の2人です。

 

東京は3年間雨が降り続いて水没し、

タキくんのお婆ちゃんは家を失い引っ越してました!

立花家からしたら割とバットエンドでしょう笑

 

物語の終盤で、陽菜は天気の巫女として、世界のため、人々のために「人柱」となり自分が犠牲になる事を選択します。

でもそれを帆高は許しませんでした。

「陽菜、一緒に帰ろう!」

「天気なんて…狂ったままでいい!」

と自分を犠牲にした陽菜へ訴えかけます。

陽菜も苦しみながら「世界」より「帆高といる自分」を選ぶわけです。

 

つまり、「人々が望む世界」よりも「自分達が望む世界」を優先した!ということですよね。

今の世の中、「他人に迷惑をかけないように生きることが善」という雰囲気があります。

今の教育方針は「協調性」「思いやり」「他者貢献」は良しとし

「自己中心的」な考え方や存在は否定されがちです。

 

その点、天気の子の帆高と陽菜の選択は、他人への迷惑を顧みず「自己中心」的な考え方と言っても過言ではありません。

だからこそ2人の選択に「よくやった!」と心が打たれた部分があり、

現代社会において美徳とされている「協調性」とか「思いやり」という文化に2人が風穴を開けてくれたという妙な爽快感を得られたのが余計にスッキリした要因なんだと思います。

 

登場人物の心情の描写が少ない

映画なので当たり前と言えばそれまでですが、天気の子では特に登場人物に心情の描写が少ないと感じました。

例えば、映画序章で帆高がワクワクして雨が降ってくる船の看板に上がっていくシーン。

なぜ帆高がワクワクしているか、なぜ嬉しそうに雨に打たれていたのかの描写はありません。

 

帆高君はMなの?って思いますよね笑

 

また、物語終盤で帆高が須賀圭に銃を向けるシーン。

展開的に銃を向ける行為は受け入れることができますが、

どんな気持ちで帆高は須賀圭に銃を向けたか?

その行為は何を象徴しているのか?

という点については映画を見ている最中では考えが及びませんでした。

 

さらに言えば、夏美が警察から逃げ出してきた帆高をバイクで助けるシーン。

自分が違反してまで帆高を助ける真意はなんでしょう?

おそらく、単純に助けたいという気持ちではなく、陽菜に天気の巫女の結末を話してしまった罪悪感からの行動です。

少しでも罪滅ぼしをしたい、そして自分のためにも陽菜を救って欲しい。

そんな気持ちからきた行動なのではないかと思います。

がしかし、そんな心情的な描写はなかったです。

 

これについては新海誠監督は雑誌インタビューで、

映画では心情的な描写は少ない方が優れた映画だと思っています

と独自の考え方を示していました。

映画では、言葉だけでなく、絵やセリフの声音、そして音楽と様々な情報があります。

その情報から多くを語らずともダイレクトに鑑賞者に訴えかたいという考えらしいです。

 

なので今回の映画で心情の描写が少なかったのは、新海誠監督ならではのこだわりだったんじゃないかと思います。

スポンサーリンク

水の描写が全作品中で一番綺麗

映像技術の進化もあるかと思いますが、水の描写が新海誠監督の全作品の中で一番綺麗だったと思います!

「言の葉の庭」でも雨のシーンが多くあり、昔から新海監督は雨や水の描写にはこだわりがあることは感じていましたが、

今回の作品は、その新海誠監督のこだわりが最大限に発揮された作品だったんじゃないかと思います。

雨空から光が刺して、雨が止んでいくシーンは何回見ても「綺麗だなぁ」と感じてしまいましたし、

雨の雫の描写が本当に綺麗でしたよね!

 

やはりRADWIMPSは天才

そして何より映画音楽を手がけたRADWIMPS。

今回の天気の声では、全33曲手掛けたそうです。

前作の君の名は。は27曲だったので手掛けた楽曲数は余裕で上回っています。

 

ところどころ似たメロディーはありましたが、

主題歌の「愛にできることはまだあるかい

ラストシーンで流れる「大丈夫。

この2曲はメロディー・歌詞共に秀逸すぎます。

特に歌詞は、この映画の登場人物の語られない心情を表しているかのようでした。

 

実は最後のシーン、新海誠監督は最後の最後まで悩んだシーンだったそうです。

理由は、監督自身が「帆高と陽菜が最後、どんな感情を抱いているかわからない」状況で、それ故にどんな終わり方をすればいいか分からなかったから。

2ヶ月間悩んだ末に、監督自らがRADWIMPSの野田洋次郎に相談したそうです。

 

そこで2人は、映画上でまだ使われていない曲があるのに気づきます。

それがラストシーンで流れた「大丈夫。」です!

「大丈夫。」自体は、新海監督が野田洋次郎に映画の脚本を送った段階で、野田洋次郎が作曲した楽曲。

なんと、最初に作られた曲だったんです。

 

最後のシーンを検討している時に、その曲を改めて新海監督が聞いた時、

「この曲の歌詞が、最後の2人の心情そのものじゃないか」

「探し求めていた答えがここにあったのか」

と気付かされ、ほとんど歌詞の内容を引用する形でラストシーンを書き上げたそうです。

 

曲が映画の1シーン、それも最も大事と言っても過言でないラストシーンを作り上げたということ。

そして、その曲自体が一番最初に作られた曲という事実。

 

これはもう「天才」としか表現できませんね!

新海誠監督が伝えたかったことは?

天気の子を通して、新海誠監督が伝えたかったことを自分なりに考えてみました。

人は自分のために他人を傷つけてることを自覚するべき

映画の中で特に印象に残っている帆高の言葉がこちら。

「もしも神様がいるならば、お願いです。もう十分です。もう大丈夫です。」

 

「僕たちは何とかやっていけます。」

 

「だからこれ以上僕たちには何も足さず、僕たちから何も引かないでください。」

 

「僕たちを、もう少しこのままでいさせてください!」

この言葉は、帆高と陽菜と凪がラブホテルで夕食を笑いながら食べているシーンで帆高が言った言葉です。

僕たちを、もう少しこのままでいさせてください

3人にとってこのままでいる事が最も望まれる状態だった訳です。

 

帆高は息苦しさから逃れるために東京に家出をしてきました。

陽菜と凪は両親が死んでしまってから、誰にも迷惑かける事なく2人で頑張って生活してきました。

 

しかし、そんな個別な事情なんて全く無視するかのように、

警察官は「誘拐届け」が出ているという理由で帆高を追い、

「未成年だけで生活するのは問題」と言って陽菜と凪に生活保護を受けさせようとします。

 

現実問題、帆高は家に帰った方がいいですし陽菜と凪も生活保護受けた方がいいのは分かります。

でもそれはあくまで他人の立場からした意見ですよね。

警察官としての立場上、3人を保護した方がいいわけです。

つまり結局は自分の仕事のための訳です。

 

例えば須賀圭介が帆高に退職祝いとしてキャップをあげるシーン。

須賀は、自分の娘の親権問題で難しい立場にいましたよね?

変に警察沙汰になると自分の立場が悪くなるので、

「お前もう家に帰れ」

と言い放ちます。

 

そしてその選択をすれば、全てが丸く収まると。

でもそれは須賀の都合であって、帆高的には何も丸く収まらない訳です。

 

警察官も須賀も「自分のため」に行動し、結果として3人の心を傷つけています。

しかし、警察官や須賀に「傷つけた」という自覚はありません。

 

これらのシーンに象徴されるように、世の中結構「自分のために他人を傷つけている」事を自覚していないことって多いと思います。

最近の教育現場なんか特にそうじゃないですか。

学校の先生は、いじめがある事を知っているにも関わらず、自分の立場を優先して見て見ぬフリをする。

親は、自分の子供に原因がある事を薄々感じながらも、学校側を批判する。

学校の先生も、親も自分自身のために取った行動で他人が傷ついている事を感じながらも、明確に「自覚」はしていません。

問題が明るみになって「自分の行動は間違いだったんだ」と自覚する訳です。

 

でも、それじゃいけないんだと。

自分自身の行動が他人を傷つける可能性がある。

その事を自覚し、考えて行動するべきだ。

そんな事を映画を通して訴えられた感じがします。

スポンサーリンク

人は誰かの犠牲の上に生きている

これは完全に陽菜のことですが、今回の映画で陽菜は一度は世界の犠牲になる訳ですよね。

陽菜が犠牲になった事で、雨がやみ天気が元どおりになった訳です。

しかし、映画上でそれを知っていたのは帆高だけ。

夏美や須賀は勘付いていましたが、他の「晴れを喜んでいる人達」はその事実を全く知りません。

 

映画を見ているこっちからしたら、能天気に喜んでいる人達に真実を伝えたい気持ちになりますよね!

 

でも、現実世界に照らし合わせたら、自分自身が「能天気に喜んでいる人達」側にいることってあると思います。

何か問題があったとして、

その問題を解決して欲しいと望みながら、

「きっと誰かが何とかしてくれる」

と軽く考え、

そして知らぬ間に問題が解決したら

「あーよかったよかった!」

 

そんな事って実はありふれているんじゃないかと思います。

 

でも、それじゃいけないんだよ!

今いる自分の状況は誰かの「犠牲」のお陰て成り立っている可能性があるんだよ?

その事にあなたは気付いていますか?

 

こんな事を言われた気分になりました。

 

勇気を持って手を差し伸べることができるか?

そして、もし「犠牲になっている人」を見つけてしまった場合、

あなたは勇気を持って手を差し伸べる事ができるか?

この映画では「勇気」についても問いていたのではないかと思います。

 

今回の映画で、帆高は「勇気」の象徴なんじゃないかと思います。

 

見て見ぬフリをして周りに迎合する訳ではなく、

相手を救うために勇気を持って行動した帆高。

自分の立場お構いなしで陽菜を救おうとします。

 

これをしたら相手に好かれるとか、こうした方が自分にとって都合が良い、といった打算的な行動ではなく、

純度の高い勇気ですよね。

 

例えば友達がイジメられていた時に手を差し伸べられるか。

職場で雑用ばかり押し付けられている職員に手を差し伸べられるか。

側から見て理不尽と思う事に「理不尽だ!」と言えるか。

 

映画を通して新海誠監督に、

大人になるにつれて、純度の高い勇気を失っているんじゃないですか?

他人のために使う勇気を失っているんじゃないですか?

 

そんなメッセージを投げかけられている気がしてなりませんでした。

 

長くなったのでまとめます。

新海監督が伝えたかった事

・人は自分のために他人を傷つけてることを自覚するべき

・人は誰かの犠牲の上に生きている

・勇気を持って手を差し伸べることができるか?

以上の3つが、私が映画を見て感じた「新海誠監督が伝えたい」メッセージです。

スポンサーリンク

最後に

今回は、映画「天気の子」のレビューという事で、

実際に映画を見た感想と、映画が伝えたかった事を誠に勝手ながら自分なりの考えで述べさせていただきました。

ここまで読んでいただき本当にありがとうございます。

皆さんは実際に映画を見られてどんな事を感じましたでしょうか?

きっと様々に思うところがあると思います!

是非今回の記事が、皆さまお一人お一人の本作に対する考え方を少しでも深める事ができれば嬉しいと感じます。

 

【補足】

色々書いて思った事が一つあります。

結局、私が上げた3つの事って「相手への愛」で解決できる問題ですよね。

 

愛があれば、相手を傷つけている事にも気付けるかもしれません。

愛があれば、犠牲になっている相手の存在に気付けるかもしれません。

愛があれば、勇気を持って接する事ができるかもしれません。

 

今回の主題歌のタイトルは「愛にできることはまだあるかい?」でした。

曲の最後は「愛にできることはまだある」でした。

何が言いたいかと言うと、RADWIMPSのこの曲は、

野田洋次郎から新海誠監督への映画に対する「お返しのメッセージ」なのかな?

と思った次第でございます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です